雨引山楽法寺(雨引観音)本堂(観音堂)の周囲の障壁には、十九面の孝子(親に孝行をつくした有名な人)の彫刻が彫られています。(下の写真の青い矢印の部分です)
 今から325年前の天和二年、当山中興十七世の文昭和尚は十万人の信者の方々の浄財を募って本堂(観音堂)を建立した。大工棟梁は日光東照宮で彫刻の腕を振るった無関堂円哲であった。
 文昭和尚は、親孝行の行いは万善の基でありながら、太平の世に馴れ道徳観念の欫けた人々が横行し、金銭万能の庶民の心は親に対する温情をもたず、年齢とった親を敬う心もない人たちが増え、人々の道徳心が失われて行く世相を歎かわしく思い、本堂の外墻に十九面の孝子の彫刻をほどこし、観世音菩薩の大慈悲をいただくことによって親子の情愛を深め、更には親子相和する観音浄土の湧出を現世に顕現せんとの熱い心情を、この孝子彫刻に託したのであります。

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 以下順を追って十九の孝子の彫刻を紹介する、左上及び各彫刻の写真と、右上の配置図(末尾にも掲載)及び末尾の内容一覧を参照していただき度い。
 猶、説明文が晦渋(かいじゅう)かも知れないが、お許しいただき度い。

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1・11 王裒(おうほう)
 王裒は営陰という所の人である。  父の王義は無実の罪で刑死したのでその墓に柏の木を椊えたが、その木のそばで毎日泣いたので、ためにその木も枯れたという。
 そのような孝行な人なので、母が死んだときの悲しみは大変なものであった。泣くなく母を葬った後のこと、王裒は雷が鳴る度びに母の墓に駆けつけて、雷が鳴り止むまで「王裒がここにおります、ご安心下さい」と言って母の墓の周囲をめぐり歩くのであった。
 普段雷が大嫌いで雷を怖がっていた母が、たとえ墓の中の人に成っても、守ってあげようという孝行な息子の心に感じない者はなかったという。
 観音堂(本堂)正面扁額の右側と裏面の右から二番目

2 大舜
 舜は中国の伝説上の皇帝といわれている。
 父の瞽叟(こそう)はがんこな人であり母は心のねじけた人であり、弟は不良少年だった。
 しかし舜はひたすら親に仕えて孝行であり弟をいたわって悌であった。
 あるとき田を耕して苦労をしていたところ、天の神は感心して象をつかわして耕作の手伝いをさせ、鳥を飛ばして田の草をついばんで助けたといわれている。
 後伝説上の皇帝である堯は舜の評判を耳にして、召し出して「天下第一の孝子にして国を治むる可き者なり」と云って、天下を譲り自分の娘を与えて皇后としたと云う。
 観音堂(本堂)正面の右端

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3 閔子騫(びんしけん)
 閔子騫は幼い時に母をなくした。父は後妻をめとった。後妻との間にも二人の子供が生まれたので、後妻は閔子騫をいじめるようになり、閔子騫には夜具も芦の穂の布団衣類も芦の着物なので寒さに耐えないほどであった。
 父はこの有様を見て継母を離縁しようとした。閔子騫は父に「継母を離縁しないでください。母が離縁されたら二人の弟が可愛そうです。」といって嘆願した。さすがの継母も閔子騫の心の優しさに感じて優しい母親になったという。
 観音堂(本堂)右面の左端

4 郭巨(かつきょ)
 郭巨は河内の人である。家庭の貧乏は目を覆うほどひどかった。そこへ子が生まれた。この貧乏では子供を養うことが出来ない。子に食わせれば母を養えない。母の恩を思えば子を捨てる外ない、承知して呉れと妻を説き伏せ、夜になるのを待つと子供を捨てに行った。山道を歩いていると、長者(金持ちの人)に会い、聞かれるままに子供を捨てる話をすると、「我れは昔子を失い今墓参に詣るところなり、生きたる子を救うも供養なり。母のために子を捨てんとする心は孝の至りなり。この金によって子を育てよ。」といって大金を呉れた。
 これ天の孝行の志を哀れんで与え玉うたものであると人々は感歎した。
 観音堂(本堂)右面の左から二番目

5・6 楊香(ようこう)の虎
 楊香は孝行な若者であった。父と共に山に入り、薪を取るため老父は松の根方に坐り鋸を引いておった。
 父は何事も知らずにうつ向いてそのことに熱中していた。楊香がふと腥(なまぐさ)い獣の匂いを感じて頭をもち揚げると、今まさに白い額の虎が父の後方に迫って襲いかかろうとしていた。父はそのことに気付いていない。
 楊香は今は自分の身を虎の前に投げ出して、父を救う以外に方法はないと思った。
 楊香は観世音菩薩に「父をお救いください。私の体は虎に与えます。」と念じて虎の前に身を投げ出した。
 そのとき奇跡が起こった。
 突然虎が向きを変えて、何事もなかったように二人の前から姿を消した。
 まさに虎口の難をまぬがれたのは楊香の親孝行の行いが観音さまに通じたのであろうと、人々は語り合った。
 観音堂(本堂)右面の左から三番目と四番目

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7 老萊子(ろうらいし)
 老萊子は両親に仕えて孝行な人であった。
 老萊子が七十才になったとき考えた。(自分が老人に成ったからと云って老成ぶった様子をしていては老いた二人の親は哀しく思うだろう。幼いときのかたちと心を示したならば二人の親は自分自身の老いを忘れるのではないか。)そう思った老萊子は、幼きときの心と身振りで二人の親に仕え、老成振った様子は見せないように振る舞った。
 心ある人はこの様子を観て、老いた親をいたわる心くばりに感歎したという。
 観音堂(本堂)右面の右端

8 王祥(おうしょう)
 王祥は幼きとき母に死なれ継母に仕えていた。継母の常で王祥の悪口を父に言いつけてばかりいたが、王祥は実の母のように継母に仕えていた。
 ある時継母は生の魚を食したいと言い出した。そこで王祥は魚をとるために肇府という所の河へ出掛けたが、ちょうど寒中のことで河は氷が張りつめ、魚が見えない。致し方なく裸になって、氷の上に横になり体温で河の氷を融かそうとした。
 ところが不思議なことに氷はその部分だけ音をたてて融け、大きな魚が二匹躍り出た。
 これは王祥の孝行な志に観音さまが感応してくださったことである。
 観音堂(本堂)裏面の左端

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9 陸績(りくせき)
 陸績は六歳のとき、袁術という人のところへ遊びに行った。
 袁術は陸績に菓子として橘(たちばな)の実を皿に盛って出した。陸績は橘を袂に入れて立ち去ろうとした。ところが挨拶の辞儀をしたとたん実がころころと床にころがった。袁術は「ほしいとおっしゃればいくらでも差し上げますものを。」といった。陸績は「あまり見事な橘なので、家に持ち帰って母に差し上げようと思ったのです。」といった。
 袁術はこの言葉を聞いて、幼い者がこれほど母を思う心は素晴らしいことだと感じ入ったという。
 観音堂(本堂)裏面の左から二番目

10 蔡順(さいじゅん)
 蔡順は汝南の人、当時後漢の世は乱れ、王莽(おうもう)がクーデターを起こして天下を簒奪(よこどり)した。
 飢饉(ききん)のため食物もなく、桑の実を拾って暮らしていた。そこへ盗賊が来て「何故に黒い実と赤い実に分けて器に盛っているのだ。」とたずねた。蔡順は「黒い熟した実は母に、赤い未熟の実は私が食べます。」と答えたので、蔡順の孝心に感じ入り乱暴せずに賊は退散したという。そればかりか、賊の頭領の赤眉は蔡順の孝行の心を知って、自分が他所から奪って兵粮としていた牛や米麦を蔡順に贈って敬意を表したという。
 観音堂(本堂)裏面の中央

12 姜詩(きょうし)
 姜詩夫婦は非常に親孝行な夫婦であった。よく母親に仕え特に食事に気を配った。
 母は飲み水は「江の水」を、魚は「鱠(なます)」を毎日食する習慣で、一日といえども変更すると、暗い顔になった。姜詩はその暗い顔を看るに忍ばず、夫婦で交替で6Km離れた揚子江まで出かけて母の飲む水を汲み、魚を捕らえて鱠を調(ととの)えるのが日常であった。
 ある朝目を覚ますと、邸(やしき)の一隅に江のように大泉水が湧き出して鯉が泳ぎ廻っているではないか。
 汲んで見るとその味は揚子江の水より数倊も美味しく、母に掬(く)んで差し上げると、今までにこのような美味な水を飲んだことがないと大喜びをして、何杯でも立て続けに飲んであきることがなかった。
 また泉水の中を泳ぎ廻っている鯉の羮(あつもの)を煮て差し上げると非常に喜んだ。
 以来夫婦は遠方まで「水汲み」「漁」の仕事が楽になり、母もまた嬉しそうに生活しているので、姜家は「春の日」のような和やかな日々を送ったという。
 漢詩はこの目出度さを次のように詠っている。
  舎側(いえのわき)に甘い泉が湧き出(い)で
  一朝(あるあさ)双鯉魚(二ひきのこいがおよぎ)
  能(よ)く母に事(つかうる)ことを知る
  婦(よめも)更に姑(はは)に孝あり
 目出度いことであると地方長官は夫婦を表彰したという。
 観音堂(本堂)裏面の右端

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13 黄香(おうきょう)
 黄香は安陵の人である。七才のとき母に死に別れ、父の男手ひとつで育てられた。故に父の恩を深く感じて成人した。
 されば夏の暑いときは父が寝室に入れば寝つくまで大扇で扇ぎ、冬の寒い時には父の布団を自分の体温であたためるなど、心をくだいて父に仕えた。その孝行の行いは地方の美談であった。 土地の人々は
  冬月衾(ふすま)を温めて慈父に孝を尽し
  夏天には枕を扇いで涼(すず)やかにす
  児童もこれを知る
  千古一なり黄香
 と云って讃えていた。
 観音堂(本堂)左面の左端

14 身を売り父を葬る董永(とうえい)
 董永は幼くして母に離れる。家は貧しくして常に人にやとわれて農事に従う、やがて父も半身動かず、董永は父を小車に乗せて田のあぜに置き農事に従事すれども父死しても借金かさみて葬礼すること出来ず、止むなく十貫文で自分の体を売ってようやく葬礼を出した。
 天女これを哀れと思い絹三百疋を織ってこれを扶け、奴隷労働から董永を解放したという。
 観音堂(本堂)左面の左端より二番目

15 雪中に筍を求める孟宗(もうそう)
 孟宗は幼くして父に死別し残された母を養っていた。
 母は老齢になって味覚が変わり寒中なのに筍を食べ度いと言い出した。
 老人故に仲々きき別けず、折から降る雪を冒して竹林に赴いたが竹の子などある筈もなく、止むなく南側は観音の方角なれば妙智力にて竹の子を与え玉えと祈って三尺程も掘り進むと竹の子の頭が見えた、喜び勇んで掘り取って帰り、母に煮て与えたところ大いに喜び病も消えたという。
 観音堂(本堂)左面の中央

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16 唐夫人(とうのぶじん)
 唐夫人の姑の長孫夫人が老齢となり、普通食は食べられず流動食を整え、髪をけずり数年孝養を尽くす。
 愈々死に臨み、「私は唐夫人に世話になって、何の恩返しもせずに今死のうとしている、唐夫人に恩返しの心をもって、各々姑に孝養を尽くして下さい」と云った。
 唐夫人の孝行は子女の範であった。
 観音堂(本堂)左面の右端より二番目

17 朱壽昌(しゅじゅしょう)
 朱壽昌が七才のとき、父と母は離婚したので、朱壽昌は母と別れることになった。母に会いたいという想いは年と共に深まるばかりだったが、母の居処はどうしてもわからず、何時しか五十年が経過した。
 その間に結婚し子供も生まれ、官吏の地位も財産も出来たが、母が慕わしい思いは変わらなかった。
 或るとき旅の商人から「貴方のお母さんは秦の都咸陽に住んでいる。」という話を聞き、自分の指を切って血を出し、その血でお経を書いて観音さまに祈りを捧げた。
 それから七日目、遂に母に会うことが出来た。人々はその志の深さを讃えたという。
 観音堂(本堂)左面の右端

18 山谷(さんこく)
 山石は宗代の詩人で名は黄庭堅、山谷はペンネームであり、裕福な家庭の人である。
 病床の母の便器は、大勢の使用人がいても一切他人には使用させず、自ら洗浄して母に与えて朝夕よく仕えた。
 山谷は詩人の祖師といわれたほどの学徳の高い人であった。
 観音堂(本堂)正面の左端

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19 漢の文帝(ぶんてい)
 漢の文帝(BC.200年位)は高祖の子で名を恒といった。母の薄太后に仕えて孝行であった。三度の食事は他人に任せず、一切自分が毒味をしてから自分が給仕したという。
 仁義の徳すぐれ、陳平・周勃など賢い家来が文帝の手足となって政治をたすけたが、文帝の孝行を真似て国はよく治まった。
 観音堂(本堂)正面扁額の左側

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1・11, 王裒(おうほう) 12, 姜詩(きょうし)
2, 大舜(たいじゅん) 13, 黄香(おうきょう)
3, 閔子騫(びんしけん) 14, 董永(とうえい)
4, 郭巨(かつきょ) 15, 孟宗(もうそう)
5・6, 楊香(ようこう)の虎 16, 唐夫人(とうのぶじん)
7, 老萊子(ろうらいし) 17, 朱壽昌(しゅじゅしょう)
8, 王祥(おうしょう) 18, 山谷(さんこく)
9, 陸績(りくせき) 19, 漢の文帝(ぶんてい)
10, 蔡順(さいじゅん)

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