雨引観音(雨引山楽法寺)は、厄除延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番札所の名刹である。

雨引山のいわれとご利益

雨引山のいわれ(寺史)

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 雨引観音は雨引山楽法寺と申し、用明天皇2年(587年)梁の国人の法輪独守居士によって開かれた、厄除延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩(国指定重要文化財)を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番札所の名刹である。

 第三十三代推古天皇御病気とならせられるや、遙かに当山観世音菩薩に病気平癒を祈らせ玉い、ご本復遊ばされたので、当山を勅願のみ寺と定められた。天平年中(730)第四十五代聖武天皇ならびに、光明皇后は法華経を書写して当山に奉納しご安産をご祈念あられたところ功験あらたかであったので、当山を安産祈願の根本道場と定めて勅願寺となされ、三重塔を造建せられた。現在光明 皇后の紺紙金泥の法華経は什宝として保存せられている。嵯峨天皇の弘仁12年(821)夏、大旱魃が国中を見舞うや、天皇は親ら写経し給い、当山に納めて、ひたすら降雨を祈らせられた(天皇の御染筆は寺宝として現存)天皇の御願むなしからず国中は大雨に潤い五穀ために実ったので御感浅からず勅命によって当山の山号を雨引山と定め勅額をくだし賜った。雨引山楽法寺の山号寺名はこの勅命によるのである。


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 明治3年(1870)の神仏分離令(大政官布告)は全国寺院の大変革を要求した律法であり事実それによって消滅した寺院も少くなかったが、当山は第二十七世 聖元、二十八世聖深、二十九世聖衡等の名僧が輩出しこの危期を見事乗り切ることが 出来たのでありこれら諸師の努力により、旧幕時代に勝る「庶民の観音信仰」の布及定着を計り各地に講社が出来、参詣者が増加したことは、特筆すべきことである。

「一に安産 二に子育よ、三に桜の楽法寺」

と俚謡に詠われているように、安産子育 祈願のみ寺として昭和の御代と共に庶民信仰の中に深く定着したのである。
 ことに近年雨引山楽法寺付近が国定公園地帯に指定され、自動車道が観音堂の真下まで整備せられるに及んで、東京方面より雨引山楽法寺の四季を楽しむ行楽客が踵を接して訪れるようになり、加えて境内の一角に「センターあまびき」が開業する等、雨引山一円は信仰と行楽の地として一躍世の視聴をあつめるに至ったのである。
 春は桜・牡丹・つつじ。初夏萌え出る新緑。さみだれの6月には参道を埋めんばかりの三千株の「あじさい」。秋は満山の紅葉等、汲めども尽きぬ雪月花のおもむきは雨引山ならではの景観であります。


雨引観音のご利益

山全体がご利益の霊力に溢れている。

1.安産・子育の霊験

 ご本尊 -延命観世音菩薩- の御誓願は、ひとびとの病気を癒し、延命長寿を与えたまう息災延命の本願に住し玉いますので、安産子育・やくよけ延命の祈願の効験、ことにあらたかであるといわれております。

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「光明皇后ご安産の図」

 寺伝によれば、女性の天皇さまであられた第三十三代の推古天皇さまは、特に当山観世音菩薩をご尊崇なされ、光元1年(605)7月病気平癒を祈らせられご本復なされたので、当山を勅願寺と定められた。
 第四十五代聖武天皇さまおよび光明皇后さまは宸翰を寄せられて、皇后さまのご安産をご祈念なされ、お子さまご誕生の後には、お子さまの無事ご成長をご祈念なされて、皇后さま御自ら紺紙に金泥をもって、法華経を書写して当山に奉納あらせられた。(現在この写経は当山什宝として保存されている。)
 当山客殿には、徳川時代初期を代表する巨匠狩野尚信が画いた「光明皇后ご安産の図」なる衡立の絵が存している。
 これ以来安産子育の霊場として、その名が世に喧伝されるに到り、このご因縁を以て現皇后陛下さまのお産のみぎりには、昭和34年10月28日皇居に参内してお守りをご捧呈申し上げた。昭和52年4月24日には、三笠宮同妃両殿下のご参詣を頂いている。


2.息災延命と開運の利益

 鎌倉時代のこと、建長4年(1252)京都より下向して鎌倉幕府の将軍職に就任した宗尊親王さまは、あつく当山観世音をご信仰なされ、仏師康慶に命じて当山延命観世音菩薩の尊像を模して、そっくりの御前立観音を謹刻せしめて、当山にご奉納なされた。
 現在、ご本尊延命観世音菩薩像と共に、国指定重要文化財である。
 ついで宗尊親王さまは、建長6年に三重塔・仁王門・客殿・鐘楼堂・地蔵堂を建立してご寄進なされた。

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[ 仁王門 ]
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[ 鐘楼堂 ]

 建武2年(1335)12月、足利尊氏公は当山に316貫文の封を寄せて安泰を祈念している。
 この故に当山では足利尊氏公を鎮守とあおぎ境内に御所明神として祠っている。
文明6年(1474)には、真壁城主真壁久幹侯、大永6年(1526)真壁治幹侯が、それぞれ諸堂を再興し、慶長9年(1604)には徳川家康公より朱印地150石を寄進せられ、真言宗新義門流関東談林として10万石の格式を称するようになった。
 慶長18年(1613)には当山住職宥円を駿府に招いて、家康公じきじきに朱印書が渡された。
 寛永3年(1626)幕府の寄進を得て、当山観音堂の東南に、東照大権現(徳川家康公)の木像を祠り、享保12年(1727)将軍吉宗公の助力を得て華麗なる現在の東照宮が完成した。


3.江戸の豪商紀伊国屋と商売繁盛

 雨水は万物を育てるというところから、明歴3年(1653)江戸の商人紀伊国屋文左衛門は、当山に松を植えて商売繁昌を祈願したので、一躍商売繁昌のみ寺として江戸の商人の間に有名になった。
 (文左衛門の植えた松の木は、宝生の松といわれて現存している。)


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