雨引観音(雨引山楽法寺)は、厄除延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番札所の名刹である。

諸堂のご案内

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磴道(とうどう)

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 文政4年(1821)より1年2ヶ月の歳月を費して完成した大石段で、145段あります。
 この石段は俗に厄除けの石段といい、一段一段登るごとに「南無観世音菩薩」と称号を唱えて登れば、145段を登りつめた時、厄が落ちるといわれています。
 石段の両側には10種3000株のアジサイが植えられており、梅雨時には新緑に映えて咲き乱れ、参詣する人々を迎えます。

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仁王門

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 建長6年(1254)宗尊親王の建立した門で、鎌倉時代の仏師康慶の彫刻した仁王尊を祠っています。 仁王尊は二躯であり、一体は阿の字一体は吽の字を示現すといい、力感溢れる 名彫刻です。
 門の周囲の彫刻は、宝永(1704)年中無関堂円哲が彫刻したもので、豪壮華麗の彫刻は日光のそれと対比されます。
 現在の建物は、天和2年(1628)十四世堯長が再建したものであり、茨城県指定文化財です。

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東照宮

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 当山第十世宥円は慶長18年(1613)5月駿府城に上り徳川家康公に謁見し、台命(家康の命令)により各宗の学僧と対論、遂に法論に勝って大御所家康の賞詞を受け更に寺領として朱印百五十石を賜りました。
 宥円は深くこの恩義を感じ家康の死後、寛永2年(1625)当山境内に東照大権現(徳川家康の神号)の祠堂を建立しました。
 享保12年(1727)当山第十八世吽教は仏師円哲と心をあわせて 現存の東照宮を再建し、地主大権現として家康家光を合祠しました。

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本堂(観音堂)

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 創建当初の本堂については不詳でありますが、記録によれば建長6年(1254)宗尊親王深く当山観音を尊崇し、由緒ある仏堂が朽壊しているのを嘆かれ、 執権北条時頼に諭して当山本堂を再建せられたといわれ、工竣成して後三百貫文の封を賜ったと伝えられています。
 文明6年(1474)真壁城主真壁久幹及び舎弟高幹の両名の合力によって五間四面の本堂が落成しました。その後本堂狭隘をつげるに及んで大永6年(1526)真壁治幹大檀那として七間四面の堂宇に改築
されました。
 天和2年(1682)第十七世文昭は十万人講を勧進してその資金を得て、遂に現存の大本堂を建立するにいたりました。
 入仏落慶の棟札によれば笠間藩よりは藩士20名足軽20名の警固の出役を記してありますが、特に笠間藩の経済的助力もなくして、このような偉業をなしとげた蔭には、延命観音への庶民信仰が如何に定着していたかが判ります。 又、本堂内外の彫刻は、江戸の人無関堂円哲の刻んだものです。
 その後平成10年秋に、屋根瓦葺き替え及び塗り替えを行いました。

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延命水

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 用明天皇の2年(588)梁の人、法輪独守居士は、本尊延命観世音菩薩を棒持して 当山に登ってこられ、しばし休まれたところ、本尊の御袖から滴り落ちた水が泉となって 涌きかえったので、この泉をご本尊の御名にちなんで延命水と名づけ奉ったと云われています。 この霊泉の水を飲むとき観世音菩薩の霊力がその身に加わって、 延命長寿の功徳を頂戴出来るといわれており、遠近各地より延命水拝受の参詣者が絶えません。又、この霊泉はいかなる旱魃にも水渇れることなく、 千四百余年の今日に至るまで清らかな浄水をたたえて、参詣者に御利益を与えています。

古歌に

ひとしずく
  手にむすびなば 雨引の
    命を延ばす 薬井の水

と詠ぜられており、広大無辺な観世音菩薩の大慈悲心を、この延命水が具現していることを示しております。

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多宝塔

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 天平年中(730)聖武天皇の后、光明皇后の造建したものが嚆矢です。
 天和3年(1683)当山十四世堯長が、三重塔を再建しようとして良材を集めて塔の第二重目まで建設したが、病のため果たせず、十五世堯宗は先師の遺命を奉じて翌 貞享元年正月、工事を進めて円成しました。ところが不思議にも、本堂が震動して観世音が自然開帳となり、群衆は数十日にわたって雲集し建築の費用もとめざるに集まった といわれています。
 嘉永6年(1853)元盛暢光両師協力して十万人講を勧進して、三重塔を改め多宝塔としたのが現在の塔です。

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奥の院(客殿)

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 旧幕時代は雨引山楽法寺運営の中枢的建物で、格式10万石・実高150石の当山の政所の置かれた建物です。
 創建年代は他の建物と同じく建長6年(1254)宗尊親王の建立ですが、寛延4年(1751)2月炎上したので、寛政4年(1792)幕府旗本鈴木氏の寄捨黄金700両を得て再建されました。現在の建物は その時のものです。
 昭和62年瓦葺きに改め、更に主尊として台湾の仏師呉雲が彫刻した聖観世音菩薩を祠り、前立として普賢菩薩像を併祠しています。

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本坊

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 雨引山楽法寺塔中の一寺であった安養院庫裡の建物を、明治4年以降雨引山楽法寺本坊として使用して来たものであるが、 当山寺史の上においては、大変意義のある建物であった。
 即ち昭和51年に建て替る以前の本坊は、旧安養 院のおもかげを伝えるもので、隠れ中二階とでもいうべき建物で、正面より見れば 平家建てであるが、側面から臨めば二階建てという変型的二階であった。 これは徳川幕府時代に幕府の犯罪人が逃げて来た場合、仏の慈悲をもってかくまった 遺構であり、当山は当時いかに、権威の有った寺院であったか、この建物を一見 すれば判るようなものであった。
 写真の建物は、平成23年12月に完成した新本坊で、鉄筋コンクリート二階建てで金剛組によって施工された。

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地蔵堂

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 建長6年(1254)宗尊親王の御願によって建立した建物であり享保年中(1715)仏師無関堂円鉄(円哲ともいう)が彫刻した地蔵菩薩を安置している。
 このお地蔵様は俗に「子安地蔵」として庶民に親しまれ、特に子育てを祈願する母親の参詣が多い。

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日華殿

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 寛政4年(1792)徳川幕府の旗本鈴木氏が、20坪の書院を建立して奉納したが、その後文政3年(1820)笠間城主牧野貞明は笠間城内の書院を当山に移築寄進した。昭和59年7月、これを客殿東方の弁天池畔に移転し。跡地に現在の書院を建立した。
 その建物の名称として、日華殿と号しているがこの建物は勲五等中里茂氏の設計するところにして、桂離宮に模せるをもって、御所の日華門に因んで、かくいうのである。

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鐘楼堂

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 145段の石段を登りながら右手を望めば、華麗な鐘楼堂を見ることが出来ます。
 この建物は、建長6年(1254)宗尊親王の御願によって建立し、その後天和2年(1682)当山第14世堯長が再建したが、又大破したため文政13年(1830)第24世元盛が再度建立したものです。
 昭和50年瓦葺きに葺き替えられたが、他は文政年中建設のままです。

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六角堂

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 正六角形鉄筋コンクリート銅板葺造り木造勾欄付建物を六角堂といいます。
 この建物の本尊薬師如来は、享保8年(1723)徳川八代将軍吉宗公が養女竹姫の眼病平癒祈願のために、仏師円哲に彫刻させた仏像であり、眼病平癒の利益あらたかであると伝えられています。
 左側の茨城県指定文化財不動明王像は、永享10年(1438)将軍足利義教公が関東鎮護の本尊として謹刻させ、当山に納めたものです。

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御供所
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 文政5年(1822)当山第24世元盛上人は、尾張の知多半島の石工を督励してこの建物の真下の大石垣(写真左)を構築したと伝えられており、高さ13m横幅約70m、道路沿いの部分を含めれば200mに及ぶ大石垣は、 名古屋城をしのぐと云われ、当山の威容を天下に示しております。
 二層の御供所(写真右)の建物は安政年間の建立であり、江戸時代の楼閣として特色のある建造物です。

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絵馬堂
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 昭和9年当山第29世聖衡が建立した建物で、 堂内の天井(写真右)には大小の絵馬数十枚が飾ってあり、中には「源三位頼政ぬえ退治の図」のように文化財としても価値のある貴重な絵馬が展示されています。
 現在は改装して、お休み処・おみやげ処になっており、どなたでも無料でお休みいただけます。又、雨引観音にしかないおみやげも多数御座いますので、どうぞご利用下さい。詳しくは、こちらをご覧下さい。

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薬井門

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 俗称「黒門」といいます。元は楽法寺の表門であり、麓の集落中央に位置していたものを移築したものです。 雨引山一山の26坊末寺6ヶ寺門徒43ヶ寺の本山としての寺務を執行し雨引山観音堂の別当であった楽法寺の、権威の表徴であった建物です。
 関ヶ原の戦(1600)以前は真壁城の城門であったものです。
 現在桜川市指定文化財であり、平成11年に磴道入り口に移転修復しました。

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弁財天

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 この弁財天女は、弁天池の中央に祠られておりますが、開山当初からお祠り申していた鎮守であります。 弁財天女は人々に財宝をもたらしてくれるといわれる女神で、この弁財天女のみたらしの水で懐中のお金を洗えば、1000倍の功徳にあずかると信ぜられており、 俗に「銭あらい弁天」と称して、お詣りの方が絶えません。
 又、琵琶を奏でている尊容から、技芸上達の霊験もあらたかであると言われています。

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鬼子母神堂

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 建武2年(1335)12月、足利尊氏は京都に進攻するに当たり、当山に316貫文の封を賜い、開運を祈願されました。
 この御所権現(鬼子母神堂)は足利尊氏を祠った堂であり、屋根には足利氏の定紋が輝いています。

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仏の山

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 鎌倉時代に築かれた万霊供養のためのお山で、頂上の平坦部分を仏の山と称し、新しいほとけの五七日忌には有縁の人々が登山して供養する慣わしです。
 登り路は石造の十三仏がまつられて、死後の転生の世界を表しています。

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聖見堂

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 聖見堂は、当山第30世聖見和尚の徳を偲んで、平成7年に多宝塔の西側・弁天池の上方に建立された、室町様式の建造物であります。
 中にお祠りしている本尊は、建武年中に足利将軍尊氏公が寄進された大日如来であり、学業成就の功験あらたかであると信ぜられております。又、東隣の鬼子母神堂には、尊氏公の定紋が刻まれております。

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水子地蔵と白衣観音

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 写真左の水子地蔵尊は、大石垣の上の御供所の前に建立されており、 水子精霊のために供物を供え、香華を手向け水をかけて供養する人が絶えません。
 写真右の白衣聖観世音菩薩は、世界の平和と自由と幸福・日本の繁栄・交通安全の為に、昭和50年4月弁天池の東側に建立されました。現在は庭園造成のため、多宝塔奥の仏の山の上に移転しました。

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お休み処・おみやげ処

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 平成12年11月、絵馬堂改装工事が完了し、お休み処・おみやげ処として開放しています。
 どなたでも、無料でお休みいただけます。又、雨引山でしか買えないお土産などもご用意いたしております。

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旧書院

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 寛政4年(1792)徳川幕府の旗本鈴木氏が、20坪の書院を建立して奉納したが、その後文政3年(1820)、笠間藩主牧野越中守貞明公が、笠間城内の書院を当山に移築して寄進されました。
 現在の建物は、昭和59年7月に奥の院西側より移築したものです。
 牧野公は、この旧書院で俳句の催しを致したと記録されており、そのおり牧野公は
   「振り向くは 泣く子の親か 田植え笠」
と発句したと伝えられております。

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