雨引観音(雨引山楽法寺)は、厄除延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番札所の名刹である。

雨引山什宝の紹介

 西暦587年開山以来1417年、盛衰興亡の歴史を繰り返しながら、雨引山楽法寺は連綿今日に続いている。
 殊に徳川幕府より朱印150石を与えられて、特に八代将軍吉宗公や十五代将軍慶喜公の台臨を得た当山には、数多くの什宝が秘蔵されている。
 いまその一部を紹介する。

武蔵坊弁慶の書

 当山に伝わる武蔵坊弁慶の法華経の断簡(切れ端の文書)
 源義経の家臣で熊野別当湛増の子といわれ、武勇絶倫で力持ちの代表のように云われている。唱歌で有名な京都五条の橋上の義経との武闘の話は人口に膾炙している。
 弁慶の勧進帳は芝居で名高いが、学問の造詣の深い人で、武事のみでなく文事にも長じていた人である。
 兄頼朝に憎まれた源義経と共に奥州(岩手県)平泉に逃れた弁慶は、文治4年(1188)義経と共に死ぬが、当山所蔵の写経の断簡は、文治2年か3年の義経主従が奥州流亡の時期のものと思われる。

光明皇后の宸筆

 天平2年(730)藤原上比等の娘安宿媛入内し聖武天皇の皇后となる、皇后は観音信仰の念あつく、紺紙金泥をもって法華経を書写して当山に祈念せられた。これはその節の御宸筆の断簡である。
 爾来皇室の御尊崇あつく、現皇后さまにまで連綿と続いている。

嵯峨天皇宸筆

 弘仁12年(821)大旱魃に見舞われ、作物みのらず嵯峨天皇は御心痛あらせられ、当山に降雨を祈念せられた。
 天皇は紺紙に金泥を染めて法華経を書写して奉納せられた。
 その功顕あらたかにして大雨沛然として降ったので、悦ばれた天皇は勅命をもって、当山の山號を「雨引山」と命名せられた。
 嵯峨天皇の宸筆は当山の什宝として、その断簡は今に残っているのである。
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 左から嵯峨天皇・光明皇后・武蔵坊弁慶

芭蕉染筆の軸

 元禄2年(1682)9月鹿島を経て当山に詣でた松尾芭蕉は
    「寒菊や 粉糠のかかる 臼のはし」
 という俳句を詠じ、自ら筆をとって書し、当山に納めた。
 また
    「雨引の 名もことわりの 時雨かな」
 の句を作ったと伝えられている。
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弁財天画像・十一面観音画像・愛染明王画像

 いずれも鎌倉時代作で、切金使用です。又、弁財天画像は茨城県指定文化財です。

蝦蟆仙人の図・鉄拐仙人の図

 狩野 伊川 画、 江戸城襖絵師で栄信とも名乗る。根岸御行松家と称せられる名家である。
 双方とも中国の道教の仙人を図したもので、蝦蟆(ガマ)仙人は不老長寿をあらわし、鉄拐(テッカイ)仙人は離魂の法を修している図柄である。
 共に徳川将軍家より下附されたものである。
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 左から蝦蟆仙人の図・鉄拐仙人の図

墨絵 池畔の松・雪中の松

 狩野 尚信 画、江戸時代前期の作、将軍家御抱え絵師で木挽町狩野家の総帥として令名高かった、画風は淡白で上品である。
 享保10年(1725)3月徳川八代将軍吉宗公厄年の祈願に当山に台臨の砌り当山に寄進したものと伝えられている。
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徳川家光公肖像

 慶安2年(1649)狩野尚信 幕府の命により家光公の肖像を描く、享保10年(1725)将軍吉宗公当山に台臨の節、納められたもの。

傳 牧渓筆 羅漢図

 明代の画家牧渓筆と伝えられる羅漢の図である。法衣に描かれている竜の図から判じて、時代的に符合しているという。

三番叟 翁 千歳

 狩野 栄信 画
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 左から三番叟・翁・千歳

室生山全山之図 対幅・室生山絵巻 全六巻

 室町初期14世紀初頭の作品
 絵巻物として完全なものとしては茨城県内随一である。

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