平成20年11月21日 わかりやすい文章に修正しました。

 雨引山の山号は、嵯峨天皇の弘仁12年「天皇のみことのり」を奉じて「降雨のおいのり」をしたことに由来するということは、すでに述べている。
 私も平成13年14年15年16年の正月は、京都の東寺に籠(こも)って「後七日御修法」(ごしちにちみしほ)という、弘法大師が嵯峨天皇のために祈祷した由緒あるご祈祷を修行させて頂きました。霜凍る午前5時から午後6時までの祈祷は、真言宗の総大本山の貫主にのみ許された修法ですから、寒さも感じずにつとめましたが、今偲んでも万感無量のものがあります。
 この御縁で京都の嵯峨の大覚寺の片山門跡(もんぜき)猊下とは特に親しくさせて頂き、17年18年の2回の中秋の名月には「大覚寺の観月の宴」に招かれ妻と共に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟に乗せて頂きました。名月の光と女官に扮した女性の緋の袴(ひのはかま)の美しさは平安時代のみやびの世界でした。
 龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟で俳句を作り度いというのは、私の年来の夢だったのです。

 閑話休題

 嵯峨の地名の「なつかしさ」の故に、寄り道の話をいたしましたが、嵯峨天皇時代の請雨(あまごい)祈願の故に、当山は「雨乞」の寺として、江戸時代有名でした。
 筑波山麓一帯は大河はなく、日照りともなると水の少ない地域だけに農民の苦しみはひどいものでした。水が無くて、田椊えが出来なかったといいます。
 元禄16年は特にひどかったようで、大豆も粟も枯れたといいますから、お百姓さんの苦しみは、想像を絶しました。
 当地の言い伝えでは、江戸や松戸の宿場から「人買い」の悪い人が農村に繰り込んできて、金や物を押し付けて「カタ」だと云って、娘たちを買って行ったという言い伝えが今につたわっているから、お百姓たちは悲しい想いをしたのだと思う。
 そんな或る日
 見るに見兼ねた筑波山脈の東の方の領主である稲葉正喬からの急便が、雨引山楽法寺山主の吽教(うんきょう)上人のところに来た。
 用件は、
 「雨降りの修法(しゅほう)をしてほしい」(雨を祈ってほしい。)
 ということであった。
 要請である。
 勿論吽教は断った。
 「実は私は春の種蒔きのときに村の名主(なぬし)連中にたのまれて、水天に祈って水を恵んで頂きました。そうは何度も祈祷することは出来ません。」 (仏天は非礼はうけず。といいます。)
 と云って承知しようとしない。
 ** 祈祷を承諾して呉れ。という領主と吽教上人の話し合いは ** 一刻(とき)に及んだ。というから、2時間話合いをしていた訳である。
 お堂に上がれない農民は、本堂の庭先に立っていたというから、体の弱い人はタマラない。音を立てて一人が脳貧血を起こして倒れた。
 これを目撃した吽教は、決然として領主の稲葉正喬に云った。
 「雨乞いの修法は、そうは何度も修法するものではありませんが、もう一度『水天』にお願いいたしましょう。」といって立ち上がった。
 然しこの密教の雨乞いの修法は、大変なものである。
 先ず満々と清水を湛えた盥(たらい)を用意し、中央に柳の枝を立て、梵字で「バン」という字を墨書した紙の龍を刻んで壇上に置き、印を結んだ吽教上人が水天の真言を唱えて、一体づつ盥の水に浮かべると、二体の龍は水を切って柳の下に進み、水上に垂れた柳の枝を伝わって上に昇って行く、その時轟音と共に境内の杉に稲妻が走って暗夜のような境内に一閃、落雷したと同時に沛然と雨が降って来た。
 境内は農民の泣き声に包まれた。
 この話は、今は故人となった雨引山楽法寺の承仕(じょうじ)という役を勤めていた家の子孫の老人から聞いた話である。
 真言密教の修法はこんな凄いもののようである。因みに私はそんな能力は無い。

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