当山における最も尊い行法とされている「護摩の法」について、当山中興第十世宥円和尚の事跡を中心にお話しいたします。
 宥円さんは行者として非常にすぐれたお方でした。たとえば・・・こんなことがありました。
 十年間雨引山の山中の行堂にこもって、一歩も山を下りず松の実などの草木の実を食して、七万座の護摩を修行したと伝えられています。
 「すごい」荒行です。
 宥円さんが走るときは、笠を胸に当て飛ぶように走り、笠が胸から落ちなかったと伝えられています。
 この行のことが徳川家康公の耳に入り、一ト目見ようと思われたのでしょう 慶長九年九月駿府城に召し出され「護摩修行」のことについて問い訊だされたそうです。  そのとき宥円さんの応答が美事であり、家康公が非常に喜ばれたということが雨引山旧記という書物に次のように誌るされています。

  台命を蒙り駿城に赴き神君(家康公)に謁し命有て雨引山興起の来由及び十万座護摩修行の旨趣を問い玉う。
  師の応対すること流るが如く、神君頤を解き喜感す。

 宥円さんの説明が弁説爽やかで、家康公は喜んで微笑して聴かれたといっています。
 その後駿府城内で各宗の学僧を招いて、宥円さんと宗教論争をさせています。
 宥円さんも大変だったと思いますが、その宗教論争に勝って、百五十石のご褒美を家康公から頂きました。
 これは大変なご褒美なのです。江戸時代二百六十年間、当山は30kg入りの袋で三百袋分の玄米を徳川幕府から支給された訳ですから、『百五十石』の朱印状を家康公から頂いた宥円さんは、正に雨引山楽法寺の中興の祖師というべきでしょう。
 この恩義に酬いるため、雨引観音雨引山楽法寺では『東照宮』というお宮を観音堂の東に建立して、家康公をお祠りしております。
 この東照宮は茨城県指定文化財であります。
 東照宮の前に一本の枝垂れ桜を椊えました。
 春四月 宥円さんの桜は美しい花を咲かせます。

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