1、序 章
 文明3年(1471)6月24日、上杉顕定(あきさだ)の部将長尾景信(かげのぶ)の軍勢、古河城を攻撃して古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)を破り古河城を占領す。成氏(しげうじ)は弟弘尊(ひろたか)以下一族とともに千葉に逃れ、千葉孝胤(たかたね)にかくまわれる。

2、古河城の奪回
 文明4年2月3日、結城城主結城氏広(うじひろ)の援兵を得て弟弘尊(ひろたか)率いる自軍と併せて15,000の兵が、夜陰利根川を渉って古河城を奇襲し遂に奪還に成功した。
 成氏(しげうじ)は長尾方の敗兵を追って裏筑波山系の雨引山を囲んだ。

3、雨引山楽法寺の焼失
 裏筑波山系の雨引山に長尾勢を追い上げた足利勢は、四方から火を放って長尾勢を攻め立てた。
 当山はこのため炎上し、本尊延命観世音菩薩(像高175cm)は自ら光明を放って観音堂前の椎の老木に難を避けられた。
 火収まり両軍退去した後、蝟集(いしゅう)した信者は本尊仏の安泰に随喜の涙を流した。
 それから幾日か後のこと、夜毎多数の鬼が雨引山上に集まり、材木を運び工事をしているという噂が立った。夜になるのを待ち兼ねるように多数の覆面をした職人が現れて、仮堂を制作していたのである。17日目にして仮本堂が建った。
 その鬼形の人々を統率したのが馬上姿の鬼神であり、白馬に跨(またが)って覆面の鬼の職人を指揮していた。
 これを直視した土地の人々はその異形さに驚き、この鬼の大将こそ天竺(てんじく)のマダラ鬼神であろうと噂し合った。
 この噂の根元は当山の住持吽永和尚(うんえいわじょう)であったとも伝えられ、或いは吽永(うんえい)の師の坊である吽賀阿闍梨(うんがあじゃり)であったかも知れない。
 然し当山にはそれを伝える確実な証拠は何一つ残っていない。
 兎(と)に角(かく)、覆面し或いは面を被った職人集団が、無償で仮本堂を建設したという説話が生まれ、これがマダラ鬼神祭の原点であることだけは確かなようである。
 ただ謂(い)えることは、日本国内ではマダラ鬼神の祭礼を行っているのは京都の太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)と当山のみであり、広隆寺(こうりゅうじ)のそれはマダラ鬼神が鬼面を着け牛に乗り唐風(からふう)の衣装を着けていることに対し、当山のマダラ鬼神は馬に乗り弓箭(きゅうせん)を帯し破魔矢(はまや)を天空に放つという違いが有ることである。
 それに当山中興第一世の吽永(うんえい)は吽賀阿闍梨(うんがあじゃり)の弟子であり、吽賀(うんが)は京都の醍醐三宝院(だいごさんぼういん)の阿闍梨(あじゃり)であったということを考えれば、「日本二大鬼祭の一」と位置付けられるマダラ鬼神祭が、当山に於いて実施されるという因縁も判然といたすのである。
 この祭礼は、それ以後断続的に継承されて江戸時代にまで続いて来たが、江戸時代初期にいたり当山中興第十三世尊海僧都(そんかいそうづ)が出るに及び、漸く定着するに至った。
 尊海僧都(そんかいそうづ)は武蔵国河越六万石の城主松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)侯の二男にして、寛永18年当山住職に就任するに当たり、信綱(のぶつな)侯より当山に内帑金(ないどきん)壱千両を贈られて祭祠料とされた。 依って寛永19年3月、中断していたマダラ鬼神祭を復興した。その際信綱(のぶつな)侯夫人は御自身の衣装を袈裟に改造して当山に納められた。
 第二次大戦後の昭和27年、マダラ鬼神祭復興に当たって此の袈裟を鬼神に被着させて、その意義を世に訴えたのである。
 祭典の開始は花火の轟音を以て合図となし、古式床しい裃(かみしも)姿の侍(さむらい)を従えたマダラ鬼神が馬上凛々と鬼達を従えて大石段を駈け登り、境内の竹矢来(たけやらい)の中で鬼達の踊りと、鬼神の破魔矢(はまや)の発遣(はっけん)や柴燈護摩(さいとうごま)と太鼓の合奏の裡(うち)を、大祇師(だいぎし)と称する僧侶の大太刀の修抜(しゅうばつ)が行われ、厄災を攘(はら)う光景は圧巻である。正に日本二大鬼祭の名に恥じない。

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